この話のオチは、こんな自分でも禁酒する気になったよ。という話。
25歳、巷によくいる若者の一人として、仕事の奥深さにも気付かず、現状を打破する行動も起こさず、それなりに気をかけてくれていた人の期待にも応えず、勝手な思い込みで会社を辞めた。
辞めた理由がテキーラを仕事にしたいというぼやーっとした理由だった。
伝手もなければ努力もしないまま、現実逃避の日々に入った。
辛うじてやっていた事が、仕事を辞めてからスペイン語を勉強して、半年くらいは週3でゴールドジムとジョギングをしていた。スペイン語を勉強するよりもニコニコ動画を見ていた時間の方がはるかに多かったけど、、、
旅に出る前の半年間はメキシコ料理屋でお手伝いをしながら店にあるテキーラを片っ端から飲み、味の違いを覚えていった。
旅立ったのは会社を辞めた10ヶ月後、それから3ヶ月のメキシコの日々が始まった。
出発は二日酔いでマジ飛行機とか無理、状態でも機内のドリンクサービスのテキーラで上がり、
タバコが吸いたいタバコが吸いたいと呪文を唱えながらメキシコシティーに着いた。
国内線へ乗り換え、降り立ったのがメキシコ第二の都市グアダラハラ
ここが最初の出発地だった。
四方5キロ未満の小さな町、っていうか村がテキーラ村で、そんな小さな村から生まれた酒が世界を駆け巡り今や欧米やアジア圏の人々が知る酒となった。
グアダラハラからテキーラ村へは、テキーラエクスプレスというテキーラ飲み放題の間にテキーラ村に到着するという夢のような交通手段が有名だが、
取り敢えず、僕は泊まっていたバックパッカーのツアーで最初の1週間のうち2回行ってみた。
蒸留所を回り、試飲しては飲み、回り、飲みを繰り返し、2回目のツアーで酔っ払って帰って寝込んでしまっている間に色々盗まれたのは色んな意味でイタイ思い出だった。
1週間が過ぎて、1ヶ月語学学校に通う間ホームステイをしていた。
休みの日はテキーラ村やテキーラ村以外の蒸留所が固まっている地域へ行き、平日はその感想などを書き留め、スペイン語を勉強していた。
少しの準備期間と小学校レベルの語学の授業を受けたところでまともに喋れるわけもなく、パソコンも持っていなかったので、この間は勉強するかテキーラの事を考えるか撮った写真を見返してどうやったらいい構図になるのか考える、という3つ位しかやる事がなかった。
語学学校とホームステイが終わり、再度テキーラ村へ戻り、今まで週末の日帰りでしか行けなかったテキーラ村の夜を体験した。
昼間の観光地の顔と違い、小さな村にゆるい夜の時間が流れる。
石造りのコロニアル建築にオレンジの街灯が点り、テキーラの原料のアガベの甘い匂いを風が運ぶ
ふらっとバーに行ってみてテキーラを一杯飲んだあと辺りを散歩しながら、夢心地に浸っていた。
テキーラを知識として知るということに関しては、メジャーどころの蒸留所は回り、観光やツアーで行けない蒸留所に交渉して見学させてもらったりして、自分なりにいいところまで見れた感触があったので、後半戦
その頃の自分の最大の興味でもあったレイブパーティーに絞った旅をスタートさせた。
レイブというのは野外でやる音楽イベントのテクノ、トランス版みたいな感じです。
パーティーを探して、パーティーのある町へ滞在してまた南下する。というのがコンセプトに決まりこれは移動するメリハリにもなった。
金持ちだらけの別荘のパーティーや、メキシコシティー最大のレイブに行ったり、ボブディランも修行したと言われるシャーマンのいる村で過ごしたりしつつ、最後の目的のパーティーのあるビーチに辿り着いた。
そこは色々とぶっ壊れていたビーチで、ヌーディスト達がビーチバレーをして、食事をしていると知らないおじさんがマリファナやLSDはいらないかと聞いてきて、夜になるとおかまの人たちがワラワラと出現する不思議なビーチだった。
僕はDJブースの後ろに一人用テントを建てて4日間を過ごした。
旅も終盤で、やっとある程度のスペイン語の会話が出来るようになり、友達もできたりしながら楽しくやっていた。ガラの悪い地域出身の男の子達と行き違いがあったときや、荒れた感じの夜などそれでもちょっと怖い時があったが
最終日の明け方、DJは抑えめのテクノを流す。
波打ち際で踊りながら、ああ俺の旅はここがゴールなのかな
という事を思った。
テキーラに関しては、それから色々当たってみたけど仕事に結びつかず結局は仕事にできなかった。少しの時期に情熱を傾けた酒だけど、今は地続きでなくてもいい。
情熱を傾けたからこそいい思い出が人生の一部として体に残っている。
人生でテキーラはしこたま飲んだ。本当に。